大阪歴史散歩

2018年11月 7日 (水)

水都号クルーズ その2

さて、いよいよ大川から東横堀川に入ります。
ここからは阪神高速の下の薄暗い堀川から見上げた橋げただけの面白くもなんともない写真ばかりですが、

私は、橋を渡った人々の歴史の風を感じていました。

まずは葭屋橋。

Img_8683

北浜の突端。

江戸時代、蟹島遊郭への通路として葭屋庄七らによって架けられた橋です。

大金が動く大都会に花街はつきもの。

Img_8684

重なるようにして今橋。

豊臣時代、新しい橋、今できた橋、今橋と名付けられた。

江戸時代には、今橋の西に平野屋五兵衛、天王寺屋五兵衛、鴻池屋と両替商が立ち並びます。

Img_8686

高麗橋。

高麗橋の名は東詰に朝鮮使節を迎える高麗館があったことに由来するともいわれ、開削当初に架けられた橋。

江戸時代、公儀橋となり、格式の高い橋。

後に京街道の起点にもなり、他国への里程を測る起点ともなった。

西詰には、江戸時代、三井の両替屋、呉服屋、秤座が立ち並んだ。

Img_8687

平野橋。

平野町は、秀吉が大阪城築城に際し平野郷から多くの人を移住させたことに由来している。

江戸時代、東の神明神社、西の御霊神社の門前町として賑わった。


Img_8688_2

大手橋。大阪城追手口(大手口)に通じる橋。

橋の西詰がT字路になっていることから、どちらに行くか思案するので、思案橋と呼ばれていました。

防衛上、大手の名称はつけられなかったが、明治になって大手橋と改称された。

Img_8691

本町橋。

開削時からの橋。江戸時代は、東に油問屋、西に木綿問屋呉服屋が並ぶ町。

現在の橋は大正2年架設で大阪市内最古の橋。

Img_8692

農人橋。
かつて橋の西は田畑。農民が毎日、上町側から西船場の農地へ通っていた橋。

Img_8694

久宝寺橋。
堀川開削に際し、河内久宝寺から多く移住させたことに由来するという。

Img_8695

安堂寺橋。

このあたりが古代の渡来氏族安曇族の拠点であったとされ、安堂寺は安曇からの転訛といわれる。

Img_8697_3

末吉橋。

江戸時代の豪商、末吉孫左衛門が架けたと伝えられる。

Img_8698_2

九之助橋。

架橋に関係する人名に由来すると思われるが不明。

西詰には住友銅吹所、東詰は瓦屋寺島家。

Img_8699_2

東堀橋。

昭和に市道堀江玉造線が貫通した際、架けられた。

Kawaraya_d_2

瓦屋橋。

元禄中期に架けられた橋。東詰は瓦生産地。

Img_8701_2

上大和橋。(画像なし)東横堀川終点の橋。

下大和橋。名前は道頓堀大和町に由来。

Img_8703_2

日本橋 にっぽんばし。

江戸初期に架けられた公儀橋。

紀州街道起点の橋で、旅籠や木賃宿が立ち並んだ。

Img_8704_2

相合橋。

江戸中期に架けられ、当初は中橋と呼ばれた。

南の芝居小屋と北の遊女町を結び、役者と遊女が会いあう艶なる橋。

Img_8706  

太左衛門橋。

江戸時代、東詰で歌舞伎小屋を開いた大坂太左衛門に由来する。

Img_8707
戎橋。

今宮戎への参道に続く橋。

Img_8708


グリコの看板を通り過ぎ

Img_8709

道頓堀橋。

御堂筋が通る橋。

Img_8710_2

新戎橋。

明治26年に架橋。

Img_8711_2

大黒橋。
大黒神社への参道に通じる橋。

嘉永7年の津波での甚大な被害は有名。

Img_8713

深里橋。

明治41年四ツ橋筋に市電を敷設するために架設。

花街深里フカリに因む。

Img_8715

浮庭橋。

平成20年湊町リバープレイスと南堀江を結ぶ人道橋として架設。

Img_8714
ここで、終点湊町船着場に到着。
駆け足での24橋くぐりクルーズ、
またいつかおさらいしたいと思います。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月28日 (日)

水都号クルーズ その1

気持ちのいい秋晴れが続いています

今日は、水の都大阪に残る数少ない堀川、東横堀川・道頓堀川をクルーズして、

川から大阪の昔に思いをはせたいと思います。

Img_8663
大阪城公園の北、第二寝屋川の水上バス乗り場、大阪城港

この川は昭和になって、治水・水害対策で開削・拡張されて今の流れになりました。

終点湊町まで約30の橋をくぐります。

Img_8664

一つ目は大阪城新橋。新しい橋です。
昭和58年、大阪城公園へのアクセス路として造られた歩行者専用の橋。

Img_8665

IMPビル。左右にはビル群が立ち並びます。

Img_8667_2

対照的に、陸軍砲兵工廠荷揚げ門の跡が残ります。

大阪城公園一帯は明治以降、日本の兵器製造を担ってきたアジア最大の軍事工場だったのですから。

明と暗、新と旧が入り混じります。

Img_8668
新鴫野橋。もとは江戸時代に架けられた公儀橋。

Img_8669

今日のクルーズでは大阪城を仰げるのはここだけ。

Img_8671

ここで寝屋川(古大和川)と合流し。

Img_8672_2

京橋。

京街道の起点として京橋の名がつけられました。(後に起点は高麗橋に移りました)

この後、寝屋川は大川(旧淀川)に流れ込みます。

Img_8673

Img_8674

天満橋。

天満橋筋(空心町筋)と谷町筋をつなぐ2階建て橋。
Img_8675_2
Img_8677_2


Img_8676

天神橋。

Img_8679
ここで堂島川と土佐堀川に分かれます。
私たちは土佐堀川へ

Img_8681
新しいビルの間に、大正時代の大林組旧本店ビルが目を引きます。

左に折れて東横堀川に入っていきます。
つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月23日 (火)

レトロな街 新世界

今日は浪速区恵美須西、今宮戎神社から。

浪速区は日本で一番面積の狭い区なのだそうです。

「なにわ」の「な」は「菜や魚」のことで、古代、主食に対しておかず全般を「な」と言いました。「にわ」は庭で海をさします。

つまり、「なにわ」とは魚が豊富にとれる海ということです。

それが後に、波や潮の流れの様子から「浪速」や「難波」の字があてられました。

Img_7386

商売繁盛の神様、今宮戎神社ももとをただせば、漁業の神様。

聖徳太子が四天王寺を建立したときに、西方の鎮護として祀られたのが起源だそうですが。

戎とは夷、異邦の者、そとからやってきたモノをさします。

さらに、漁村では漂着したクジラをえびすと呼んで、大漁を呼ぶ寄り神として信仰したそうです。

夷、戎、胡、蛭子、蝦夷、恵比須、恵比寿、恵美須。

日本語って独特ですよね。
音と独立して様々な意味を持たせる表記ができる。

逆に、絶対がなくて曖昧な文化なんですかねえ。

Img_7388

それはともかく、新世界界隈のお散歩です。

Img_7391

外国の観光客のためですかねぇ。人力車が走ってました。

Img_7387

そういえば、昔、アイスコーヒーって、冷コーって言ってました

Img_7392

坂田三吉さん、知ってる人も少なくなったでしょう。

今はなんたって、藤井聡太君だね。

Img_7393

通天閣の足の部分の天井にこんな絵が描かれていたって知りませんでした。

明治45年初代通天閣に描かれたクラブ化粧品の広告画の復刻だそうです。

今まで串カツ屋さんばっかり見てて気づきませんでした

Img_7395

こんな建物もみつけました。

有形文化財に登録された昭和28年建築の、当時は喫茶店。

今はギャラリーとありますが、石井修さんの作品です。

たしかに新世界は昭和レトロな街でした

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月 7日 (土)

年の初めは安産祈願

Img_6669  
奈良市で最古の神社、率川(いさがわ)神社。

御祭神がヒメタタライスズヒメノミコト(神武天皇の皇后)で、右に母の玉櫛姫命、左に父の狭井大神とともに鎮座していることから、両親が子を守る姿として、安産・育児・家庭円満の神様として信仰されています。
Img_6668_2

拝殿の向こうに3神が鎮座します。
飛鳥時代に推古天皇の勅命で、同じ女性ということでしょうか、神武天皇の皇后をおまつりしたものです。
狭井大神は大物主大神のことで大神神社の御祭神です。
神話時代の複雑な関係がよぎります。

今日の目的は安産守をゲットすることでしたが、

ここまで来たら、世界文化遺産でもある、最も古いお寺に初詣。

Img_6682

元興寺は、奈良時代に、飛鳥の方興寺(飛鳥寺)を移転して改名したものです。

正月も7日ともなると閑散としています。
ここが京都と違うところ。
心休まります。

Img_6678

本堂(極楽堂)は国宝。

Img_6681

飛鳥寺建立当時の、百済から招いた瓦博士が造った日本最初の瓦が、今も美しく屋根を飾っています。

せっかくですから、まったりと奈良を満喫したいので

Img_6671

奈良の和菓子とお茶を
萬御菓子誂処樫舎で
最初に出されたお茶は、なんと冷えひえの水出し番茶。
オイシイ!

Img_6673

薯蕷饅頭と御抹茶を。
柚がすりこまれた皮で白小豆の餡をくるんで赤膚焼の器ごと蒸してアツアツを出してくださいます。

Img_6674

Img_6677

お土産はやはり 花びら餅とお干菓子

Img_6687

正月早々、心の洗濯

良き年となりますように

Img_6683


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年11月20日 (日)

熊野街道を往く①

京都から大坂を経て熊野三山へ参詣する道を熊野街道といいます。

熊野権現の信仰が盛んになった平安時代中期以降、皇族や貴族がこぞって参詣し、室町以降はそれが庶民にかわって「ありの熊野詣」と言われるほどにぎわったのだそうです。

西方浄土を夢見て、西の海に散骨してほしいと願う私は、是非ぜひ街道制覇を試みたいと思い立ちました。

Img_6311

京都から船で淀川を下って、八軒屋浜で大坂上陸です。

江戸時代この船着場には8軒の船宿があり、たいそう賑わっていました。

Img_6315

船を降りた参詣客は、ここから陸路、熊野をめざして歩き始めます。

Img_6317_2天満橋京町、土佐堀通りの永田屋昆布店の前に船着場跡の石碑が立ちます。

Img_6319

まず、船着場の南西、石町の窪津王子にお詣りし、旅の無事を祈願します。

王子というのは、熊野権現の御子神で、熊野街道沿いには九十九王子といって多くの王子社があります。その第一王子が窪津王子です。

今は、坐摩(いかすり)神社御旅所に合祀されています。

神功皇后が新羅征伐の帰途、ここに坐摩神社を奉斎し、休息したところとされています。

Img_6321大坂城築城の際、神社は秀吉によって久太郎町に移転させられましたが、神功皇后鎮座石は今もポツリとここに残されています。

さて、街道は今のお祓い筋を南へ南へと行きますが、今日は大阪府公館(元の知事公舎)が公開される日なので、ちょっと寄り道をします。

Img_6323_4Img_6322_2
館内にリオ、400mリレーの銀メダルバトンが飾られていました。

さて、街道に戻って、ちょっと早めのランチとします。

Img_6324

にしはらのうなぎ丼大満足

さてさて、まだ1㌔も歩いてないのに、寄り道ばかり

南へ南へ、南大江小学校まで来ると、太閤下水の標識が

Img_6326

ちょうど見学会が催されていたので私たちも相乗り参加。ラッキー;:゙;`(゚∀゚)`;:゙

Img_6325

この石垣は江戸時代のまま。今も大阪の下水道として活躍中です。

この辺りは上町台地の西斜面になるので、かなりのスピードで水が流れていました。

当初は地表を流れていたものですが、今は暗渠となっています。

背割り下水と言われるのは、家の前の道ではなく、家の背を流れる下水路を街の境界としたことに由来します。

それにしても貴重な文化財を見ることができラッキーでした

Img_6328

引き続き、お祓い筋を南へ。

榎木大明神に突き当たります。

枯死寸前だった樹齢650年という大木を蘇らせた樹医さんの調査で、榎ではなく槐(えんじゅ)の木であることが判明したそうですが、今は青々と元気に茂っておりました。

その昔から街道のよい目印となっていたことでしょう。

ここを大きく東に曲がり、谷町筋を横切り、また南へ折れて真っすぐ歩きます。

突き当たると右は空堀商店街。商店街の通りを東に歩き、すぐにまた南へ、谷町筋と並行に歩きます。

上本町4丁目と谷町筋を結ぶ、通称楠木通りに出ます。

右手になんと、道の真ん中の大木が。

Img_6330

楠木大神です。

かつてここは本照寺というお寺でしたが、道路の拡張で立ち退きになり、ご神木だけが残されました。

樹齢600年を超えた大木だったそうですが、今は枯れて切り株のご神木。

そばのクヌギが青々育って、それでもここは楠木大神です。

先ほどの榎木大明神と同様に蛇が祀神。

街道は大木を右に見ながら南へ真っすぐですが、

またちょっと寄り道して谷町筋に出ました。

Img_6331


近松門左衛門のお墓です。

門左衛門とその妻の戒名が彫ってあります。



 

もとはここは法妙寺というお寺で、そこにお墓があったのですが、これもお寺の移転でお墓だけが残されたのだそうです。

さて、一筋戻って、また熊野街道へ 

    ★゜・。。・゜゜・。。・゜

ここから先は、日を改めて歩くことにいたします

    ☆゜・。。・゜゜・。。・゜








| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年8月23日 (火)

道頓堀の橋

今日は道頓堀川に架かる橋を西から東へ検証して歩きます

アッツー(;;;´Д`)

Img_5884

木津川を東西に架かる大正橋。

大正時代に架けられた橋なので、大正橋。現在は2代目です。

Img_5885

木津川にそそぎ出る道頓堀川を見ます。

今日はここから道頓堀川に沿って東へ歩きます。

道頓堀川は、堀止になっていた東横堀川と西横堀川をつなぎ木津川にそそぐ堀川で、

開削した安井(成安)道頓の名をとって道頓堀川といいます。

Img_5888

大正橋から道頓堀川に沿って一つ目は日吉橋。

Img_5892

付近には、今も材木店、銘木店が並びます。

Img_5889

続いて汐見橋。

この辺りは各藩から入港する船の荷上場で、ここから潮の干満を観察したので汐見と名がつきました。

Img_5893

続いて幸西橋。

日吉橋、汐見橋、幸橋は江戸時代に架けられた橋ですが、

幸西橋は大正時代に架けられました。

幸橋の西にあるからこの名がついたのでしょうか。

Img_5894

幸橋。幸町は江戸時代からの町名です。

Img_5895

なにわ筋が通る西道頓堀橋。

昭和に架けられた新しい橋です。北詰に当時火力発電所がありました。

Img_5897

住吉橋。

当初、橋の上から住吉大社の高灯籠が見えていたことから住吉橋と名がついたそうです。

Img_5901

深里橋。

明治末に架けられた橋で、深里(ふかり)は、かつてここにあった花街の名だそうです。


Img_5900

現在は港町リバープレイスとして水上バスや音楽イベント発信基地になっています。

Img_5904

大黒橋。道頓堀開削まなしに架けられた大国社に通じる橋。

現在の橋は2013年。

Img_5905

新戎橋。明治になって、町の発展とともに新しく架かった橋です。

Img_5907

道頓堀橋。

昭和12年に御堂筋の拡幅で新しく架かった最も広い橋。

しかしここまで来ると、汚い川ですなぁ・・・

いっそ ホントにプールにしちゃったらよかったかも

ここに来ると、いつも悲しくなります

Img_5908

戎橋。

今宮戎の参道に通じる橋です。

Img_5909

太左衛門橋。

芝居小屋の興行主大坂太左衛門に由来します。

Img_5911

相合橋。

北詰のお茶屋と南詰の芝居小屋の遊女と役者が相い合う艶なる橋。

Img_5912

Img_5913_2

日本橋。江戸のにほん橋。大阪のにっぽん橋。

日本橋は紀州街道の起点であることから、

紀州徳川への起点ということで日本橋と名がついたという説も。

Img_5917

最後の橋、下大和橋から道頓堀川最東端を臨みます。

向こうに南北に走るのが阪神高速、左奥に続く流れが東横堀川です。

道頓堀川が東に行き止まったところで今日はお開き

100年前ならここちよい川風を受けながら、木場や船着場、旅人宿、花街、芝居小屋と移り変わる風情を楽しめたでしょうに・・・

昔を偲んで歩くには、あまりに様変わりした川と橋でした





























| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月26日 (火)

西横堀川跡をたどって

淀屋橋

Img_5755

大正時代の大阪府知事林市蔵の銅像の道路向かいに

Img_5756_2

大川からの西横堀川引き込み口の碑がありました。

西横堀川は1600年代前期、永瀬七郎右衛門(材木商)によって開削されたので当初は七郎右衛門堀とも呼ばれ、堀に沿って多数の材木商が軒を並べていたそうです。

Img_5757_3 松平忠明が荒廃した大阪を再生するために開削した川が江戸堀川。

Img_5759

西横堀川と江戸堀川が交わるところに架かる筋違橋。

Img_5760_2

ビルの谷間にひっそり日本家屋とおもいきや美々卯本店。

向かいは御霊神社。

Img_5761

御霊神社の境内一部を買い取ったこの会社は鳥居の撤去をためらったのか、鳥居が車庫の門になってます。

津村御堂(北御堂)を経て

<そうそう、津村は円(ツブラ)から訛った語で、丸く湾曲した入り江>

Img_5764

座摩神社(いかすり)。

古代大川河口で渡しを生業とした渡辺氏の氏神。

渡辺氏は嵯峨源氏の祖ともいわれる古代の氏族。

座摩神社前の橋は新渡辺橋。

Img_5762 久太郎は百済(くだら)の当て字とわれ、ここは渡来人の多く居住する地域で、そこに渡辺氏が居を移してきたのです。地名は歴史を知る有力な手がかり!

Img_5765

境内にそびえるエンジュの木は満開。

はらはら?バッサバッサと頭から花をかぶってしまいました。

Img_5768

境内の防火陶器神社(ひぶせとうき)。

灯籠も賽銭箱も陶器です。

江戸堀から新町までを瀬戸物町といったほど瀬戸物問屋が立ち並んだそうです。

Img_5769_2 新町遊郭のあったところ。幕府公認の遊郭で、江戸の吉原、京の島原と並んで、日本三大遊郭のひとつだったそうです。

Img_5773

船場の旦那衆が新町橋を渡って遊郭へ。

Img_5779_2

そして、長堀川と西横堀川が交差するところに架かる四ツ橋。

涼しさに 四つ橋を 四つ わたりけり

Img_5777

四ツ橋は上繋橋(かみつなぎばし)、下繋橋(しもつなぎばし)、
炭屋橋、吉野屋橋の総称です。

写真はミニチュア模型として保存されている四ツ橋。

Img_5780

四ツ橋から南へ。西横堀川が堀江川と出会うところ、御津公園。

今のアメリカ村 通称三角公園です。

Img_5781

今日のゴール。西横堀川が今に残る唯一の場所。

道頓堀川との合流地点です。

手前が道頓堀川の水。向こう(北)に伸びていれば西横堀川ですが、先のコンクリートの壁から向こうは川がありません。

天井の阪神高速が西横堀川の軌跡を示しているということです。

Img_5783

淀屋橋から道頓堀まで、あまり外国の方にも出会わずに、

大阪の裏を歩く、それなりに楽しいハイキングでしたよ。









































| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年6月28日 (火)

真田丸から四天王寺へ

今年のNHK大河ドラマは真田丸。

そこで、私たちも再び真田丸を訪れました。

Img_5657

まずは、大阪城への抜け穴があると巷で有名な三光神社。

なんと神職は武内宿禰の末裔で、現在86代目だとか。

1845年の古地図ではサナダヤマイナリと記され、三光神社となったのは明治以降。

神社の由緒ってなかなか面白い。

Img_0883 前回訪れたときは紅葉でしたが

Img_5653

雨上がりの紫陽花の境内もしっとりといい感じです。

Img_5658

今年2月に設置された真田丸顕彰碑。

大阪明星学園の東側。

大坂冬の陣で徳川方を苦しめた真田出城跡が確認されました。

Img_5659

大阪城空堀を右に見ながら、上町筋を越えて、熊野街道にあたります。

住居表示は上汐町1丁目。船場の塩町に対して、上町台の汐町。

中央区の本町に対して、上本町のように、それぞれ意味のある古い町名なんですね。

熊野街道、八軒屋浜の起点から

Img_5662_2 2.7キロの道標。

Img_5663 北を振り向いてパチリ。

Img_5664

街道沿いの生魂小学校。公立なのに立派な佇まい。

Img_5665

ハルカスを目印に、熊野街道をまっすぐ南へ、南へ。

突き当たったところが四天王寺でした。

Img_5667

四天王寺から天神坂を下って、安居神社へたどりつきました。

Img_5669

ひっそり佇む本堂の前のこの輪っかは何?と気になりつつも、

足の疲れが先にたって、まっいいか。

Img_5670

今日の散歩は真田信繁終焉のこの地でお開きとなりました。

えっ 

私 一人で帰れない

さいわい、地理に詳しいお友達がJR天王寺まで連れてってくれました。

ホッ

大阪を歩き始めて3年・・いまだ西も東も分かりません┐( ̄ヘ ̄)┌





しばらく行くと



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年4月27日 (水)

天満界隈を歩く

今日は大阪城の北、扇町を歩きます。

扇町界隈は、淀川と大川(難波の堀江)、天満堀川に囲まれた文字通り扇の形をした地域です。

その中程に位置する大阪天満宮から、今日は出発です。

Img_5335

雲一つない晴天で

Img_5339_3 Img_5340

境内の亀の池のカメさんも甲羅干し。

そもそも天神さんは、「天満大自在天神」と言って、菅原道真の怨霊が天空に満ち、大自在天という最大級の神様となられたもので、道真の祟りを恐れてをあちこちに祀られた、それはそれは怖い神様なのです。

とはいえ、このあたりは天神さんを中心に店や寄せが立ち並ぶ一大繁華街だったのです。

Img_5338_2

今は繁昌亭ひとつ。吉本興業発祥の地もここだそうですが。

Img_5344_3 江戸時代の与力役宅の門

そして、大阪北のこの辺りは、寺町、同心町、与力町の名前に残るように、大阪城を守るため、寺が東西一直線に並び、同心や与力の屋敷が陣取っていました。

今も寺町は、お寺が一直線に並んでいます。

Img_5362 Img_5363_2 Img_5366

緒方洪庵、山片蟠桃、大塩平八郎の墓所もここにあります。

Img_5336

川端康成生誕の地の石碑がありました。

康成のお父さんはここで開業医をしていたのだそうです。康成2歳で父が、3歳で母が亡くなり、祖父に引き取られて茨木に引っ越しています。

Img_5341_3 Img_5342

天満宮から東へ。明治まで川崎東照宮という神社があったそうです。2代将軍秀忠が各藩に命じて、家康を祀る東照宮を建てたのです。だから、かつては全国に東照宮があった。

Img_5352

淀川に並んで架かる新旧銀橋。右手が銀橋、左側が国道一号線拡張で新しく架けられた新銀橋で安藤忠雄のデザインです。

Img_5351

その前の造幣局。

Img_5360

その向かいの造幣局迎賓館は大阪最古の洋風建築で泉布観といいます。

泉布とは貨幣のことだそうです。

Img_5358

そのまた向かいの旧桜ノ宮公会堂。ここではランチもいただけるそうです。

Img_5361

そして、その北にOAPと帝国ホテル。

大阪アメニティパークは三菱精錬所の跡地再開発。

OAP玄関前のこの2本の柱は、かつての三菱精錬所の門柱なのだそうです。

北区の東の端に古今入り混じったこんなに素敵な空間があるなんてびっくりポン。

大阪街歩きはまだやめられません。








 
























| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月22日 (火)

東海道56次枚方宿

今日は市内を離れ、京都と大阪の中間点、枚方を歩きます。

徳川幕府は京都から大阪までの京街道を東海道の延長として整備し、伏見・淀・枚方・守口の4宿を設けました。

つまり、東海道は57次あるわけで、枚方宿は56次です。

Img_5155

そして枚方宿は東西約1.5kmの京街道沿いの宿場です。

Img_5144

宿場の東の端、東見附から歩きます。

Img_5143_2

江戸時代の河内名所図会に、大名行列が枚方宿を通ってかささぎ橋に向かって進んでいく様子が見られます。

橋のたもとに一本松が見えますが、ここが東見附、枚方宿の東の端です。

Img_5148

今、復元されて一本松が植えられています。

Img_5151

東見附から350m、枚方橋跡です。

今は暗渠化された安居川に架かっていた橋の親柱が大切に残されています。

Img_5153 Img_5154

京街道と磐船街道が交わる所に建つ道標。

右 大坂みち

右 くらし滝 左 京六里 やわた二里

瀧 文政九年十一月建立

願主 大阪 和泉屋 近江屋 綿屋 小豆嶋屋

大阪と大坂が入り混じった道標は珍しいんですって。

Img_5152_3

こんな道標も。

宗左の辻とは角野宗左という油屋の家の角にあったのでついた名前。

Img_5161

問屋役人も努めた庄屋「木南家」。

先祖は楠木正成、楠を分けて木南としたといいます。

Img_5165

船宿「鍵屋」。63畳の大広間や淀川からの引き込み溜もあった大旅館。

Img_5162

街道筋には古民家を利用したレストランや

Img_5163

カフェが。

Img_5166_3

江戸時代の枚方渡し

Img_5166_2

船宿。

ほんの100年前までこの風景が見えていたのでしょうネェ

Img_5167

これは郵便屋の渡し跡。明治43年京阪電車が通るまで、淀川左岸の郵便物はここから対岸高槻まで渡しで運ばれ、後のJRで大阪・京都に配送されていたのだそうです。

Img_5169

1.5kmの終点、西見附の松の木です。

東見附の苗木に比べるとかなりの年代物。

枚方宿は今とっても整備されて、新しい家も古民家風に建てられたり、自動販売機も茶色、看板も統一、おしゃれな街に変身しています。

今度はゆっくり町家diningにでも入って、この街に溶け込んでみたいと思いました













































| | コメント (0) | トラックバック (0)